傍に居るなら、どうか返事を 唐突に、成歩堂は額に手を当てて、仰け反るようにして笑い始める。 響也は驚くでもなく、怒る事もなく相手の様子を見つめていた。その視線は冷ややかで、あははと高らかな笑い声とは反対に、確実に部屋の体感温度を引き下げていく。そうして、暫く続いていたそれはふいに途切れ、成歩堂は響也の立つ方向を見る事なく顔を背けた。 「そんな事を言ってはいけないなぁ、牙琉検事。」 くと唇を歪め、成歩堂は薄汚れたニット帽を右手で押さえながら立ち上がる。片手はだらりと垂れ下がり、ゆるゆると顔だけを上げた。 響也は、全てが緩慢でゆっくりとした彼の動きを、それでも黙って見つめていた。 部屋の中を占領している緊迫感は、忽ち成歩堂の行動によって焦れを取り込み、一瞬で膨れ上がりそうになっていく気もしたが、響也の態度は一貫している。 冷静に、視線だけを成歩堂に送る。 成歩堂の足は床を踏みしめながら一歩一歩降ろされていた。ソファーを回り込んで、響也の目の前にその姿を見せるまでに随分と時間が掛かった。 並び立つ二人の男に身長の差は殆どない。顔を上げた成歩堂の瞳は、響也がこの部屋へ訪れてから初めて真正面から交わった。お互いの姿が、相手の瞳が鏡となり写し出されているのを見つめていた響也が、不機嫌そうに顔を顰めた。 そ些細な変化に成歩堂は口元を綻ばせる。 「それじゃあ、合意を得た行為ということで結審してしまうよ。」 にこと胡散臭い笑みを浮かべてから成歩堂は響也の前に掌を翳し、一言告げる度にその指を折り曲げてみせた。 「嫌悪を感じる相手に触れられていたにも係わらず、性的快感を得たのは何故ですか? 相手の行為に射精をするほど感じたんですか? そもそも嫌ならば、どんな手段を講じてでも逃げ出さなかったのは何故ですか? それは即ち、言葉では示した『嫌』という意思表示は実は建前で、本当は性行為自体を受けたいと望んでいたのではないですか? …なあんて…立証されてしまうよ?」 口調はあくまでも緩い。ともすれば、独り言を呟いているような状態だったが、響也の背にある扉に、すと指を伸ばした。ぺたりと掌を板につけると、足を一歩踏み出す。片方は塞いだ、けれど片方はがらりと空いている。 嫌なら避けろ。そういう意味だと響也は理解した。そして動くつもりがない事を視線で相手に返してやる。ふ、と成歩堂が口元を綻ばせた。 そうして、一歩、また一歩と相手が距離を詰めてくるを見据える。これ以上、足を踏み出しようもない距離に近付いたと思えば、成歩堂は躊躇いなく、響也の唇に己のものを重ねてきた。 軽く、しかし過失ではなく、確かな意志を持って重ねられたとわかるだけは強く、相手のものに押し付けた。互いに視線は逸らさない。 自分を見つめる碧い瞳を前に、成歩堂は口元を弧にしたまま離れた。響也が顔色ひとつ変えずに、腕を持ち上げ掌で唇を拭う様を眺めて、やれやれと首を振る。 「目も閉じないのか…可愛げがなくなるのは頂けないなぁ。」 おじさんは寂しいよ。顎の無精髭を指先で玩びながら溜息までついて、落胆の様子を演出する。対する響也は冷ややかな視線を送るのみ。ああ、と気付いたように口を開いた。 「アンタ唇がかさついてるぞ、典型的な栄養失調の症状じゃないのか。」 途端、成歩堂は眉を寄せる。響也に指摘された事など、身に覚えがありすぎだ。 「ホント、可愛げがない。」 「ガキ扱いしたければ、僕はそれでも構わないけど、歳はとるんでね、生憎と。」 いつまでも、二十歳そこそこのガキじゃないよ。 そう言い捨てて、横髪を払う仕草だけが成歩堂の思い出に住む彼とよく似ていた。 記憶を手繰り成歩堂は目を細める。 浮かぶ面影がもたらしたものか、成歩堂の顔を酷く柔らかな笑みが包む。その事に、初めて動揺をみせた響也が、顔を横に向け早口で喋り出した。 「可愛げのある、世間知らずのガキだったんだろ、僕は。 そこに付け入ったアンタを卑怯だとか、やっぱり復讐だったのかと思った事もあった。でも、今日の判決で確かにアンタは無罪で、冤罪の汚名を被せて人生を台無しにした僕になんか、最初から優しくする必要も理由もなかったはずなんだ。 だからこそ、必然性がない。検事である人間を強姦するほどの危険を、アンタが犯す理由が見当たらない。」 だいたい、僕は好きだと告げただろ?。 それこそ合意の上で、アンタは俺を辱める事が出来たはずだ。 響也の言葉を聞きながらも成歩堂の脳裏はやはり過去を追い、たったひとつの真実とやらに、思いを飛ばした。 content/ next |